「おいっ」
「え? …きゃぁぁ!!」
 ずる、ぱす。
 フォーネストさんのサラサラと揺れるペールブロンドの髪と、広い背中を追っていた私の視線がくるりと反転し、気が付けば不機嫌に細められたサファイアの瞳がありました。 「す、すみません!」
 サファイアの瞳は間近にあって、その距離は内緒話をする時よりも、もっとずっと近いものでした。
 その距離と腰に感じる圧迫感で、私はフォーネストさんに片腕で抱き寄せられている事に気が付きました。
 ぎゅっと咄嗟に掴んでいた物は、細部にわたって刺繍が施され、上質なクリーム色の生地で作られたフォーネストさんの袖でした。
「すみません、すみません、すみま…」
 私が転ばないようにしてくれたその真摯な行動に、淑女としてお礼を一つ述べてゆっくりと離れよう…と思ってはいたのですが、それ以上に熱の集まる頬をこの近距離で見られたくない乙女心が勝りまして、必死でフォーネストさんの腕から逃れようと淑女としてはあるまじき態度をとってしまいました。
「おい! バカ落ち着け、ちゃんと自分の足が」
 間近にある美麗な顔に、私は動転してしまい、彼の助言をまったく無視して、更に自分がフォーネストさんの袖をつかんだままであることなどすっかり失念し、勢いよくフォーネストさんから離れようと上体をそらしました。
 結果。
「ひゃぁ」
 どさっ。
 今度こそ、私は、盛大に草地に尻餅をついてしまいました。
「ああ…」
 あまりの自分の情けない姿に、ため息がこぼれました。
(せっかくフォーネストさんが、外出のお誘いをしてくださったのに…。)
 今朝のサイードさんとの会話が、大変具合悪く区切りがついたところを見計らったように、フォーネストさんが訪ねてこられました。
「ああ、フォーネスト皇子。ミキさんを外出に誘いに来たのですか?」
 と、あの不気味な笑顔を浮かべてサイードさんはフォーネストさんへと、話しかけられました。
そして、その言葉に背中を押されるように、フォーネストさんが、私を誘ってくださり現状にいたるのですけれど…。
(フォーネストさんとのお出かけは、大変嬉しいのですが…サイードさんとのお話が気になってしまい、まったく集中できません。)
 そして、その集中できないことが招いたこの失態。
(あんなお話を聞かなければ、もっと、ずっと楽しく外出できたはずですのに…)
 しょんぼりとうな垂れた私の視界に、紺色の上質な生地が入りました。
(あら? 私、地面の上に転んでしまったのでは?)
「おい、いい加減どけろ」
「!?」
 下から声がかかり、私は、目を大きく見開いて、その声へと振り向きました。
「きゃぁ!」
「うるせぇ!」
 慌てて私は、下敷きにしていた方から飛び退きました。
 私は、転んだ時彼を道連れに転ぶどころか、下敷きにしてしまったようです。
「すみません。すみません」
 立ち上がって、衣服についた土埃と草を払うフォーネストさんに、何度も頭を下げました。
「怪我は無いな?」
「はい、まったく無いです!」
「ならいい」
 そう言って、フォーネストさんは、再び背を向けて歩き出しました。
 その背中を、私は、教会を出た時と同じように追いかけます。
(…口調は荒れておりますが、とても優しい方ですよね)
 教会から、一度も口を開かず、全く私を見向きもしないで、一人で歩いて行かれた時は、少々、辟易いたしましたが―。
(けれど、そんなことは無かったのですよね…私のことを気にも留めていなければ、一緒に転ぶことも無かったのですから)
 そして、前を歩くフォーネストさんの歩調は、とてもゆったりとしたもので、私が無理せず追いかけていけるものだということにも気がつきました。
(こんなに素敵な方なのに…なぜ…)
 サイードさんの言葉が、ずんと胸に重く沈みます。
「おい」
「は、い!?」
 ばすん。
 強かに鼻を振り返られたフォーネストさんの胸に当ててしまいました。
「歩きながら考え事するのは勝手だが、足元が疎かにならない程度にしとけ、また転びてぇのか?」
「とんでもございません!」
 ぶんぶんと首を横に振って、フォーネストさんの言葉を否定します。
(ああ、あのままでは…ええと、何ですっけ? 痛みで快楽を感じる方たちのこと……え〜と、え、え、えむ?そう、エムです、エム!!エムと思われてしまうところでした!)
「…なら、ちゃんと歩け」
「はい!」
 そう元気に返事をして、改めて一歩踏み出したのですけど…
「きゃ」
 ずぺ…。
「………」
「…あの、これは、決して態とではなく…ちゃんと、足元を注意してたのですけど」
 語尾が段々と尻すぼみになり、上目遣いでフォーネストさんを見上げます。
(ああ、眉間にさらに皺が寄ってます!)
 なぜ、注意された側から転んでしまうのでしょう。
 羞恥心と、不甲斐無さに涙が溢れてきます。
(泣いては駄目、さらに惨めになります)
 ただ、黙って私を見下ろしてくるフォーネストさんから堪らず目を逸らして、足元へと移しました。
 サイードさんからお借りした、白いワンピースが、度重なる転倒のため、緑色の染みと茶色い土埃で汚れているのが見えました。
 それがさらに気を沈める手助けをしてくれました。
「…すみまきゃぁ」
 このまま沈黙して座り込んでもいけないと思い、再度フォーネストさんへ謝罪を口にしている途中、右腕の肩に近い場所を掴まれ、凄い力で引き上げられました。
 その突然のことに、私は、されるがままに立ち上がって、目の前に立つフォーネストさんを見上げました。
「あ、あのっ」
「もう、お前に歩けとは言わねぇし、させようと思わねぇ」
「え?」
 ため息混じりにそう言われ、私は、全く意味を解することもできずに、ただ、目の前に立つフォーネストさんの顰められた顔を見上げるばかりです。
(あ。歩かせないって…では、どうしろと仰るのかしら?)
 そう疑問を口にしようとした時でした、ふと、私の視界からフォーネストさんが消えました。
「ええ!? きゃぁ!!」
 それから、がくんと視点が上がり、足が地面から離れました。
「え? ええ!? ええええええ!?」
「うるせぇ、耳元で騒ぐな!」
 そうすぐ側からフォーネストさんの怒声がして、私は、反射的に口を噤みます。
 それから、改めて状況を確認して…悲鳴が喉に詰まりました。
(私、フォーネストさんに抱き上げられてます!!)
 そう、視点がいつもよりも高いことと、足が地面に付いていない浮遊感は、フォーネストさんの腕に座るように持ち上げられたためでした。
 丁度、私のお腹の位置にフォーネストさんの顔があります。そして、不安定な上体を支えるように反射的に抱きついたのは、その彼の頭でした。
「いい加減に腕を離せ…落としゃしねえから」
「は、はい」
 彼の言葉に従って、ゆっくりと、頭から腕を離し、フォーネストさんの肩へと移しました。
「最初から、こうしてりゃあ良かった」
 よくありません!
 そう言いたかったのですが、散々、フォーネストさんの前で失態を繰り返してるので口にすることは憚られました。
「大人しくしてれば落としゃしない。だから、暴れるなよ」
「…はい、あの、すみません、重いですよね?」
「軽くは無いが、死体を持ち上げるよりは随分楽だ。気にするな」
 引き合いに出された対象に、思わず口を窄めそうになりましたが、少しだけ彼が微笑まれたように感じまして、そのことに胸がほんのりと温かくなり、自然と窄みかけていた口から笑みがこぼれました。
(このまま、しばらくお願いしてもいいでしょうか?)
 人を一人持ち上げているにも関わらず、颯爽と歩き、また、私に歩調を合わせて歩かれていた時よりも、ずっと足の運びが速くなっておりました。
(…ここで、歩くと言っても迷惑になりますね)
 そう思い直して、私はできる限り、フォーネストさんが持ち運びしやすいようにと、スッと背筋を伸ばして上体の安定を図り、彼の肩へ乗せていた手にも極力力が入らないように勤めることにしました。
 そして改めて周りの景色へと目を移して、そっと息を吐きました。
「綺麗」
 様々な形をした雲が浮かぶ青い空は、まるで職人さんが丹精こめて織られたカーテンの様です。
 その雲を動かす風には、ふわりと甘い香りが含まれております。
 甘い香りは、足元で揺れる色彩鮮やかな花々と、木の葉に包まれて、咲き誇る花のものでした。
 世界は、光に溢れキラキラと輝いて見えました。
「素敵」
 感動が胸の中に溢れるのですが、それを上手く表現することができません。
 全てのものが平等に生を謳歌しています。
「あたりまえだ」
 私の呟きに、そっと、答えられたフォーネストさん。
 口調は相変わらずのものでしたが、その声音から溢れる思いに、私は、にっこりと微笑みを返していました。
「…とても、素敵な所ですね。こちらが、向かわれていた場所でしょうか?」
「いや、これよりも更に奥だ」
「この奥…ですか?」
 そう尋ねて、進行方向へと改めて顔を向けました。
 私の目は、この場所とあまり変わらない木々が生い茂る緑に溢れる世界が映っています。
 いったい、どんなところに連れて行ってくれるというのでしょうか?
「どんな場所ですか?」
「行けば分かる」
「ここよりも、綺麗なのですか?」
「どうだろうな、場所によって良いところってのは其々違ってあんだろ。比較できることじゃねえよ」
「そう…ですね、ふふ。楽しみにしてますね」
「ああ」
 相変わらずの不機嫌な顔。
 ですけど、ここ数時間で彼の内側を少しでも垣間見ることができたような気がします。
(これ以上、好きになりたくはありませんのに)
 彼のそんなちょっとした発見をする度に、溢れる幸福感と絶望感。
 幸せな気持ちが心に充満したところで、冷水に浸されたようにサイードさんと話した事が浮かんできては、鬱然として愁いに沈んでいきます。
(なぜ、繰り返してしまったのでしょう…好きになってしまったのでしょう)
 そっと瞼を閉じて、この気持ちがこれ以上膨れ上がらないように祈ります。
 しかし、サイードさんの言葉と、繰り返してしまった私の状況から、それはきっと無理であろうことが胸を締め付けました。