緋色の涙

 ポタリ、と頬に水滴が落ちてきた気がして私は目を覚ました。
 暗闇の中、そっと雫が落ちてきたと思った右頬に触れてみたけど、さらりと乾いた頬を撫でただけだった。
 その事にほっと胸を撫で下ろして、ベッドのヘッドボードに置いていた目覚まし時計を見る。
 月明かりに照らされた針が示していたのは2時ちょうど。
「丑三つ時…嫌な時間に、嫌な理由で目が覚めた」
  時計を見るんじゃなかったと僅かばかり後悔する。
 私は、小さく息を吐いて、再度眠りにつくべく枕に顔を押し付けた。
 秒針が時を刻む音が寝室に響き渡る。それがいやに耳に纏わりつき、寝ようと必死になればなるほど大きく聞こえて、私の目は冴えてしまった。
「…ホットミルクでも作ろうかな」
 これ以上このまま横になっていてもムダな足掻きだろうと考えた私は、のそりとベッドから起き上がり、部屋の電気をつける。
 暗闇に慣れた目にジンとした刺激が襲ってきて、瞼を一度きつく閉じた。
 白い光に慣れるまで数秒ほどそのまま自分の目を覚ました秒針の音を聞いていた。
 暫くして、そろそろいいだろうと、閉じていた瞼を開けて部屋を見渡す。
 見慣れた室内が当たり前に存在するその光景に安堵の息を吐く。
 1LDKの私の城。4畳半の寝室と12畳のリビングダイニングキッチン。
 気ままな一人暮らしの独身女性には丁度いい広さだと思う。
 私は、寝室からまっすぐキッチンへ向かって、シンクの横に置いた水切りラックに入れっぱなしにしていたマグカップを取り上げて、キッチンの端に置いた冷蔵庫へと向かい牛乳を取り出し7分目程度まで注いだ。
 それから砂糖をスプーン1杯入れて、電子レンジに入れタイマーを1分半に設定し、スタートボタンを押す。
 レンジが稼動したのを確認してから、ふと頬に雫が落ちてきた感覚を思い出し、もう一度その場所に指を置いた。
「何だったのかな…さっきの…」
 指から伝わってくるのは、先ほどと同じように乾燥した肌の感触。あの時は気がつかなかったが、ちょっと、荒れ気味ではないだろうか。その事に自然と眉間に皺がよる。
 …今度、保湿パック買ってこよう。
 電子レンジのスタートボタンを押してから1分半が経過した時、終了を告げるアラーム音に交じって、何かが落ちる音が耳に届いた。
「…え?」
 ドクッと心臓が跳ねる。
 音がしたのは寝室に使っている部屋で、私がさっきまで居た場所だ。
 一人暮らしのこの部屋には私しか居ない。
 ペットも世話をしきれる自信がないので飼っていない…なので、物音を立てるのは、私一人しかこの場所には存在していない。
 ドクドクと心拍数が上がっていく。
 こくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
 見に…行かないと…。
 そう思っているのに、恐怖のあまり一歩も足を進める事ができない。
 幻聴だ…きっとそうに違いない。
 自分に言い聞かせ、気合を入れて一歩足を踏み出した時、今度はガタンとはっきり耳に届いた。
 ひいっと喉元で声が詰まる。
 じっと音がした先へと視線を送るが、キッチンからだと寝室の入り口は対角線上にあるので覗く事ができない。
 いったい何が起きたんだろう…。
 頭の中で寝室で起きているだろう事を思い浮かべる。
 音の大きさからして結構大きな物が床に落ちたに違いない。
 しかし、寝室にはそういった大きな音を立てて落ちる物なんて置いてあったかな?と、先ほど出てきた寝室を頭の中で描いてみた…けど、そんな物はないとすぐに否定の言葉が頭に浮かんだ。
 そうするともう自分以外の存在を認めるほかないのだが…私は、その考えに首を横に振った。
 ここはアパートの3階で、しかも非難梯子からずっと離れた一室だ。寝室の窓の鍵はちゃんと掛けたし、窓を割られたような音もしてなかった。
 …きっと、何か、何か落ちたのよ。そうに違いない!!
 頭の中でひっそりと浮かび上がった、自分が仕事から帰る前から人が侵入していたという考えを綺麗に抹消して、今度こそ勇気を振り絞って寝室へと向かった。
 ギシギシと自分が踏み鳴らす床に、もう少し静かに出来ないのかと八つ当たり気味に思う。
 床が鳴るたびに自分の心音もドクンと跳ねて、寝室を何度も何度も確認して近づいた。
 寝室の扉の前に付き、うるさく鳴り続ける心音と、恐怖のあまり息が上がって半開きになった唇をきゅっとかみ締めて、少しでも落ち着けようと深く深く息を吸い込んでから、出来る限りゆっくりと息を吐き出した。
 …よし!
 まだ心音はうるさく息も上がっていたが、深呼吸したお陰で落ち着けたと思い込み、尻込みする気持ちに発破をかけてから、寝室の扉に手かけてゆっくりと音を立てないように注意して開いた。
「…え?」
  目に入った光景に、思わず口から声が漏れる。
  寝室の床には、155cm程の真っ白い綺麗な人形が棺に納められた死人のように、ガラステーブルとベッドの間の狭い場所で、真っ直ぐに足を伸ばして横たわっていた。
 少し棺に入れられる形とは異なったのは、赤く染まった腹部の布を右手で強く握りしめていたことと、左腕で目元を隠していたこと。
「え…」
  人形の腹部の赤い染みを見て、それが血だと認識した途端に、驚きのあまり先ほどと同じく間抜けな声を発してしまった。
「あ…」
  横たわった少年を呆然と見つめている私の耳に、小さいけれど苦しそうな声がはっきりと届いた。
 それにサッと顔を強張らせ、混乱してパニックになりそうな頭を出来るだけ落ち着かせて、血に染まった少年を抱きあげた。
「ええ!? なんで傷だらけの子が寝室で寝ているの!? 君、ちょっと、声聞こえる?」
「…あ…らうぇ」
  呂律が回らないのか、それとも意識が混濁して自分が発している言葉が分からないのか、少年は、腕の中でうっすらと目を開けると、私に向かって手を伸ばして必死に何かを訴えかけるように口をパクパクと動かし、それからスッと意識を失った。
「ちょ…君!!」
 ぺちぺちと軽く頬を叩いて、再度意識を呼び戻そうとしたけれど、全く反応を見せず眉間に皺を寄せたまま、少年は浅く呼吸を繰り返すだけだった。
「とりあえず、ベッドに寝かそう」
 よいしょと少年を抱え上げ、私が先ほどまで寝ていたベッドに出来るだけ振動を与えないようにゆっくりと横たえた。
 それから怪我の状態を診ようと少年へ改めて目を向ける。
「真っ白…」
 上質の絹糸のような真っ白な肩口まで伸びた髪の毛に長い睫、品の良いアンティーク陶器を思わせる白磁の肌。先ほど覗いた瞳は透明度の高い湖に眠るルビーのように澄んだ色をしていた。
「…怪我は…してない…わね」
 きつくシャツを握りしめていた白く細い指を解いて、そっとシャツを捲り上げてみたが、酷い見た目に反して怪我はしておらず、ホッと胸を撫で下ろした。
 しかし、彼の白い肌には無数の傷跡があり、その痕から過去に深い傷ばかりを刻んできたんだろう事がうかがえて、その事に再び眉間に皺が寄る。
「虐待の痕…よね、これ」
 一番大きな物で10cmはある鋭利な物で縦に切られたと思われるものから裂傷、火傷など…私が今まで見たこともないような傷跡が沢山あった。
 少年が掴んでいた箇所にも、深く刃物で刺されたような痕を見つけてしまった。
「とりあえず体…拭いたほうがいいわよね…」
 あまりの痛々しい姿から目を逸らすように、そっと少年の顔へと視線を移し、そこで彼の頬についた血の跡に目が留まった。
「私が…感じた場所」
 乾いてカピカピになっている少年の頬にある血を左手でするっと撫でて、右手で自分の頬にも触れる。
 少年の右頬に残る血の痕と、水が落ちてきたような感覚があった自分の右頬。
 その偶然に、少しばかり背筋が粟立った。それを払拭するように少年の体を拭くタオルを取りにバスルームへと向かった。
 
 この時私は、少年の傷痕と頬にある血痕に気を取られ、少年がどうやってこの部屋に侵入したのかなどすっかり吹っ飛んでいた。